昭和四十九年十二月七日 朝の御理解
御理解 第六十九節 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三 年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わがまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ」
信心はみやすう出来る。内容の充実した、おかげを頂きたいです。しかしこの御理解は一寸矛盾したものを感じますね。信心はみやすいものじゃがと仰りながら、三年五年ではまだ迷いやすいと仰せられる。
だから迷いが生じる様な信心では、まだまだ信心が、難しいときです。いよいよおかげをおかげと悟らしてもらい、天地の御恩徳を御恩徳として、身に感じさして頂ける様な信心になる。
そして昨日頂きます様に、痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞという様に、平穏無事であり、今日は健康であることが有り難いとわかる信心。そこまでゆけば信心もみやすいのです。
三年五年ではまだ迷いやすいと、だからやはり一ぺん通るところを通らせて頂いて、体験に体験を積まして貰い、いよいよ神様の間違いなさ。いわゆる絶対信と申しましょうか、そういうものが頂けて来る様に、ならなければ信心はみやすいということにはなって来ない。だから信心がわかればみやすいのである。信心がわからんから難しいのである。
何の稽古ごとでも同じこと。そこで稽古をさせて頂く事がです、まあそれは皆それぞれ難儀を通して信心に、入信をしている人が殆どで、その難儀を通して、本気で信心をさして頂こうと決心する。そう決心するところから信心は、段々みやすうなって来る。
何の稽古ごとでも同じ事です。例えば職人さん。大工なら大工、佐官なら佐官と、それは素人から言えば大変難しい仕事です。素人に家を建てろというても建てきりません。さあこの壁いっちょ塗ってくれと言うたって、そりゃね、しだごだになら塗りましょうけれども、本当にすきっとした壁つら塗れません。という程しにやはり難しい。
けども本気で、五年なり六年なり。いうならば本当に大工にならんならんと決心する。どうでも自分は佐官にならにゃならんと決心する。その決心するところから、いうなら叩かれながらでも、仕事を本気で覚え様とする。覚えたところにはもう、そんなに難しいもんじゃない。
大工さんに家を建てるのは難しいでしょう。はあちょいと難しいですよとは言わんです。こんなに立派に壁塗ることは難しいでしょう。それは素人の方からは難しいでも、それを体得すれば、みやすいのです。しかもそれは限りがありません。
大工なら大工の仕事でも、なら楽に家が建てられる様になったからというて、それで済んだという事じゃない。それがいよいよいわば、仕事が仕事を教えてくれる様に、最高の技術を身につけて行こうとすれば仲々難しいことである。だから信心でもです、もう一つの体得が出来たら後はみやすいというのです。
ところがおかげ、おかげに終始しとりますとです。おかげは受けても信心が体得出来ませんから難しうなるです。
昨日は北野の教会五十年祭で、ここからも十何名かお参りさして頂いた。もう皆、一人一人に、おかげを頂いた。朝の御理解を頂いとりましたから、もう一入、まあいうならば、付き合いといったお参りではなくて、いうなら心からお参りをした人ばっかりでありました。本当に有り難いと思いました。
鹿児島の行徳先生のお兄さんに当たられますから、見えておられまして、先生の話でした。その話の中にこういう話がございました。あちらの御信者さんの中で御主人を亡くなされた、四人の子供さんを抱えられて、そして四人の子供をそれぞれ大学を出された。お母さんは裁縫、よその着物を縫われる。人が一枚縫うときには二枚縫うという様に、それこそ神様にお縋りしながらです。四人の子供を無事に育て上げ、それぞれ嫁をとらしてもらい、それぞれが幸せになられた。
まあその間に大変であったろと思う。お縋りしなければおられない。いうなら朝参りをして来る、そして帰ったらもうそのまヽ仕事にかヽるという様なきびしい中に、子供さん達の手足は伸びた。ところが子供さん達の出来がよくて、もうお母さんお母さんと言うて、勤め先とかいろいろなことで、お母さんは勿論、一人生活をなさっておられる。そのお母さんのところにお金を送って来る。もうとにかく電気製品で埋まる様にいうならば、結構な生活をする様になられた。
或る誕生日に、子供達四人が話し合うて、とにかく親先生が御本部に参拝されるときには、必ずお供をして、お参りが出来る様に、それこそお母さん一生御本部参拝が出来る様に、それは兄弟四人でおかげを頂くという目録をプレゼントされるという程しにおかげを頂いた。
けれどもそれが最高であった、最高潮であつた。私の様な幸せな者があるだろうか、私の様な極楽はなかろうという程しに悦に行っておられた。三味線の稽古をする。踊りの稽古をする、歌の稽古もする。まあいうならば、ありとあらゆる、いうならば贅沢も出来る様になられた。そのころからです、生き甲斐がないと言われる様になった。
それこそ人間、この生き甲斐をなくした程、哀れなものはありませんね。それがこの子供を一人育て、この子供をもう一人大学にやって、これに一つ嫁御をもろうてやってという間はです、張り切っておられた訳です。
だから一心に神様にお縋りをして、おかげでよか嫁御をもらいました。おかげでよい就職をしました。おかげで大学も出ましたと、四人の子供さん達の上に、そういうおかげを頂いたけれども、そうしてしかも、いうならばそういう難儀苦労を見とりますからね。子供達が、それでこのお母さんを粗末に出来んいうところから、大事になされる様になり、いうなら、結構けだらけの生活が出来る様になった。ところからです、生き甲斐をなくしたというお話を聞かせて頂いた。
勿論そのお話の焦点というのはです。人間というものは、本当に生き甲斐を持たなければ駄目だと、いう意味のことを強調されることのために、そのお話をなさったと思うんですけど、私の感じた、昨日皆、ここに帰って参りました。そこでお弁当頂いて帰っとりましたから、ここで改めてお弁当頂いて、皆さんも同じ事を言われる。
あれがもし今の合楽の、御信者さんであったら、あヽいうおかげを頂いたら、それこそ極楽の真ん中に座っとったんじゃ勿体ない。その極楽を、あの人にもわからしてもらおう、この人にも聞いてもらおうと、いよいよ合楽示現活動に参画さして貰うて、いよいよ本当の意味においての、合楽示現活動が出来るだろう。もういよいよ有り難い意義のある日々が送られるだろう。
例えていうと、なら熊谷さん辺りのごと、もうやんがて八十に近いおばあさんが、朝晩のお参りをなさる。それこそ今いう様に極楽の真ん中におられる。おかげを受けておられる。そしていわば一人暮らしておられる。もうそれが退屈どころではない、子供達が遠方に行っているから淋しいどころではない。もう有り難いいっぱいの生活をなさっておられる。しかも最近では、あのカセットを求められてから、それをあちらに持って行っては聞いてもらい、こちらに持って行っては聞いてもらってです。皆さんの喜ばれる事がもう、いわば唯一の、有り難い楽しみと、思われる様な生活を、送っておられる。
いよいよ合楽の世界、いうならば神様も喜んで下さり、人間も喜ぶ。神様と人とが合い喜べる。私一人が助かった。それこそ極楽の蓮の花の掌の中で、極楽ばかり感じておったんでは、やはり飽きがくるでしょうね。
だから人間、私はある意味あいにおいてです。そういうおかげを頂くということもです、信心がみやすいことはない。かえって一つの難儀をふんまえてとか、難儀をひっさげておるからこそ、朝早起きも出来る。一心にお縋りするそして、決心がつくところからです信心が楽になって来るです。
佐官さんや大工さんの例を取りましたけど、本気で自分はこの仕事によって一生を、この仕事によって生計をたてなければならんと決心をする、ところからです。それは場合にはね、叩かれることもありましょう。辛い思いをすることもありましょう、それを体得するためには。けれどもそれを、本気で決心さして頂いとるから脇から見る様にジユツないことはない。
仕事が身について行くことがむしろ楽しうなってくる。そしてなら五年も本気で信心さしてもらうとです。家を建てることはむつかしいでしょう、壁を塗ることはむつかしいでしょうと、いヽえ難しいことはない。一通りの事を覚えればみやすう、それこそ鼻歌まじりで出来るということなんです。
信心も同じこと、だからおかげに終始しておったんでは、そういう結構けだらけのおかげは頂いてもです。生き甲斐を亡くす様な結果しか生まれて来ない。如何に信心を身につける。この問題を通して、信心の稽古をさしてもらうということ。
一月前だったでしょうか、夜おそうに日田の綾部さんと、山根さん(弁当屋さん)もう、それこそ私は寝んどりましたら裏の部屋にやって見えられた。親先生大変なことです。どうしたんですかと言ったら、田中さんが胃ガンの宣告をうけられて、しかも何ケ月しか保てまいと医者は言われる。それで親戚の方に全部、だから御長男なんかもうそれこそ脇の方で見ておられん位に、力を落とされた。
本人には胃ガンとは言うてはない。ところが薄々感じますよね、そういう雰囲気がありますから、もう昨日もお礼に出て来てからのお話ですけれども、綾部さんところに寄らせてもらいましたら、あちらの長男のそれこそ夏の修行と寒修行しか参って来んという御長男です。綾部さんところの、けど田中の小母さん、いっちょこんどの寒修行にはね、僕もお参りするけんで、力は落とさんでしっかりお参りしょうやと言うて、力付けてくれる具合が今までと違う訳なんですね。だからかえって感ずる訳です。
それからそのときに、綾部さんと弁当屋の山根さんとは、特別な親戚付き合い以上の中ですから、本当にもう周囲の方達が、大変な様子でした。これはしかし大変な病気をつかまえられましたもんだなと。それこそお金はどれだけあるかわからんという程しの、財産家のお母さん。
小母ちゃんですからね。もう金にあかするというても、いうならば最高の技術を、医学なら医学の、最高の医学をもってしてもです。医者の方が、いわば匙を投げた形であった。そのことをお取次さして頂いたらね、決心すればおかげということを頂いた。
勿論だから、体が悪いからと入院しとられまして、そして結果がそういうことなっとりまして、そこで退院して見えて、その決心ということについてです。自分も薄々と、感じられる様になり、そしてとにかく合楽にお縋りをして、それこそ決心をされた。
毎日お参りがありました。仲々日田からここまで参って来る事は容易じゃないですけれども決心すると楽にお参りが出来る。お参りに来るだけではない、そういう大家の奥さんがです、参って来たらまずお便所の掃除、それ以来。そして最後の診察を受けられる事になり、胃カメラというのですか、レントゲンに出て来たり、それが胃カメラにうつる。その状態をもう一ぺんしらべられることが一昨日でしたでしょうか、もうそれこそ御神米をもうとにかく握り潰して、あんまりぐちゃぐちゃになっておるからにびっくりしたということです。
まあ一生懸命の思い、一心のお縋りさして頂いとつた。おかげを頂いたと言うとられましたが、何にもないということになったのです。しかし今の合楽でおかげ頂いとるのは、例えばガンなんかは、ガンとわかって一心にお縋りして、決心しとるところから、そのガンが無くなってしまうのが、今合楽にガンでお願いなさってこられる方達は、これは特別な異例なものですね。
この頃からも肉腫の方が、いよいよお願いしておかげを頂いたときには、ガンではなかったという様なおかげを頂いとります様に、もうそれこそ一家中は勿論ですけども、取り巻きの友達なんかは、それこそ、大変なよろこびです。
昨日は綾部さんと二人出て見えられました。いうならばそういう、一つの決心ということは、信心をね、一心と定めいということなのです。勿論それだから、医者もなからなければ薬もいらん。ありゃこんなですよ。例えば医者にかヽるでしょう、医者にかヽったら医者の言う通りにすることが信心です。
けども神様一心にお縋りするということになったらです。薬はいらんです。そうでしょう、例えばなら、胃が悪いなら胃が悪い。もう神様一心にお縋りすると、というて胃の薬を飲むとすると、それはもう自分が胃病であるということを認めた事になるのですから、形も影もないおかげにはなっちゃあこんです。例えば、私が糖尿病と、酒はいけない、甘いものはいけない、腹いっぱい食べちゃならない。 私は、医者は糖尿病である。安静が必要であるという程しのことだけれども、私は糖尿病という名の、神様の御都合だと頂いとる。糖尿病という名の神様の御都合なんだから、私は御飯も腹いっぱい頂く、酒も腹いっぱい頂く、甘いものもぜんざいでも、ぼた餅でも頂くと。ということは、私は糖尿病と認めてないわけです。この辺のところは微妙です。 例えば、薬を飲むということは、自分は胃が悪いと、胃の悪い人ならです。ということになるのですから、ね。
信心にも段階があります。ですから様々なところを通らせて頂くのです。けれども段々おかげを頂いてです、信心がみやすいもの。それははじめの間は信心のなかなかでけん、ひまも金もかかる。しかも朝早起きなんてとても出来るこっちゃないと、と言うたり思うたりしておった人がです。ひとたび決心をするとです、楽に参って来る様になる。楽なことばっかりはなかろう。場合にはしるしいこともあろうけれどもね、信心が身について行くことの方が有り難う楽しうなって来る。
だからみやすいのと同じでしょうもん。場合にはそれこそ泣く泣く辛抱せにゃんというところもあるけれども、辛抱したあとの有り難さというものを体験するから、その辛抱もまた有り難いことになってくる。ほんにもうこの病気が治りゃ参らんでよかばってん、いつまで参らにゃんじゃろうかというごたる事では、やはり難しいのでありしるしいのである。その難儀を通してです、信心をわからして頂こうということ。
だから三年五年の信心では、迷い易いと。そこは一寸矛盾の様ですけれども、みやすいものじゃと言いながら、実は三年五年では迷い易いとおっしゃっとるのは、いうなら、稽古の過程のところが難しいのじゃということ。けどその稽古の過程であってもです、本気で決心をすると、難しゅうはないと。本気で大工で一生を立て様と、したならばそれは、素人は難しいけれども、決心をして大工の弟子入りをすると、差程に難しい事じゃないということです。
身について来る仕事の、いうなら技術が段々身に体得して来ると、楽しうなって来る。面白うなって来る仕事が、信心も楽しう面白うなって来なければ、みやすいということにはならんのです。
十年と信心が続いたら、それこそ教祖様がおっしゃるごと。よろこんでわが心をまつれ。もういよいよ信心が大磐石ということになる。われとわが心が拝まれる。
十年前の自分、十年後の今日の私。思うただけでも涙がこぼれる。思うただけでも有り難い。いわゆる、われとわが心が拝める様に、段々なって来る。どうでも一つおかげを頂きましてね、信心がみやすうなるところまで、信心を高めたい。
それにはまず、私は何が何やらわからんで、お導きを頂き、何が何やらわからんで、おかげを頂くげなからという信心のところから、お参りをして来る。そしてお話しを頂く、そしておかげも頂かんならんけれども、いよいよ信心を身につける。
ここには信心を身につけに来るところとおっしゃっとるのですから、本気で信心のけいこを仕様という、問題は決心なんだ。田中さんじゃないけれども普通で出来そうにも無い事が出来る。今までかってしたことがない、それこそ家のお便所なんかでも、女中さん、嫁さん達でなさるのでしょうけれども、それこそ一番汚いところを清めようという様な、心の状態。いよいよ自分の心を清めようというそのしるしを、お便所掃除に現わして、決心をして、もう医者が何と言おうがです。医者の見立てと神様の見立ては違う。
その神様にお縋りを一心に縋って、一心に縋って行くという、決心をされたところからです。そういうまあ普通でいうならば、そげなことがあるもんかという様な、奇跡が現われておるのであります。
そして昨日の御理解を綾部さんとお二人で頂いて、やれやれおかげ頂いたでなくて、今日の御理解を頂いたら、また私ども二人が頂かなければならん御理解だったと言うておられます。
それこそ痛いのが治ったので有り難いのではない。ガンがもう消えて無くなったというのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いんだという、信心をこれから身につけて行かねばならんということをです、改めて感じさせて頂いたというわけなんです。
そういう信心が身について来るところにです、もうとにかくわれとわが心が拝める心がひらけて来る。けいこなんです、信心とは。
信心とは、日々の改まりが第一。研くことが第一ということ、もっちっとは難しいごとあるけれどもです、信心とは日に日にです。年々、一年一年有り難うなって行くということの事実が心に感じられたらです、研かにゃおられんのです。馬鹿らしかです。改まらにゃおられんです。
そこから信心のいよいよ、有り難さというかね。その信心の妙境に、入って行くことが出来る。そこには信心は、難しいものでもない。とても金がなからにゃ、暇がなからにゃてんなんてんという人が、こんどは反対に哀れに見える様になって来る。
けど只おかげに終始した信心であったら、どんなに結構なおかげを頂いてもです。鹿児島の御信者さんの例じゃないけれどもです、おかげを頂いて、これが極楽という時点からです。生き甲斐をなくする様な信心では、つまらんでしょう。
おかげを頂くと同時に、信心が身について本当に合楽示現活動に参画さしてもらえる様な、高度な信心を目指してもらわねばいけないということですよね。どうぞ。